なぜ僕らは地方を舞台に選んだのか01〜東日本大震災がキッカケの「キッカケ」って何?〜

2018.04.30 Makoto Ootsuka

雑記

はじめまして、こんにちは。大塚眞(@tukamako)と申します。

とかとこでは「経営ディレクター」と名乗っておりますが、企画書づくりやクライアントワークを担当しています。

地域経済に貢献していきたいと考えて、初めて名乗ったこの肩書き。

企業経営、地域経営と「動かし、回すこと」をとかとこという組織を通して、仕事にしていければと思っています。

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さて、僕は「地方」という文脈に関わって8年目になりまして。

就職もせず、学生時代に立ち上げた会社という「箱」を使って「これからの地方に必要なこと」を仕事にするため日夜働いております。

 

生活の拠点は新潟県十日町市。ただ、仕事は声がかかればどこへでも。
東京にも会社の拠点があるので、都会と地方のハイブリットな生活スタイルを楽しんでいます。

ブログでは自己紹介も兼ねて「地方を自分が活躍する舞台に選んだ経緯」を書いていきたいと思います!

 

東日本大震災をキッカケに「地方を目指す若者」へ

 

生まれは北海道ですが、育ちは横浜。浜っ子。

渋谷まで20分、横浜まで15分のほどよい都会で育ったこの身。

十日町では「出身どこなの?」と聞かれても、あえて「神奈川です」って言ってしまうくらいの都会でした。

(横浜です!っていうとイチイチ「都会だねぇ〜Fuu!」って言われて面倒だから。)

でも、小学生の頃は家庭菜園などを嗜み、家庭科の授業で自分が育てたカブなんぞを持参するなどしていた土好きでございましたのですよ。

三つ子の魂百までとは言ったもので、そんな縁もあって大学生になってからは公共政策・地方自治・地域づくりの分野を学んでいました。

転機が起きたのは2011年3月11日。

東日本大震災が起きたのは私が大学1年生の終わり頃で、19歳になったばかりでした。
当事の彼女と喧嘩したか、別れたかして、誰かの家に泊まっていた気もします。(死ぬほど遊び歩いてた)

東急東横線の渋谷駅のホームで電車が発車するのを待っていて、午後2時45分だか、そんな時間。
ちょっと揺れるなぁって思ったら電車の車体が右に左に揺れだしました。

電車は動かないわ、バスに乗ったけど2時間くらいかかって2駅先の中目黒駅までしか着かないわ

仕方なく実家の日吉を目指して15kmほどの道のりを歩いて帰ることになり、歩いていたら武蔵小杉駅へ続く丸子橋が見えてきたので一安心した記憶があります。

ちなみに、彼女とは震災の安否確認の電話の折に寄りを戻しました。

あの時の記憶や衝撃というのは、誰しもに何らかの影響を与えたのではないかと思います。

「当たり前に思っているものが、これからもずっとあるとは限らない」

大学生活での日常、数年後に控えた就活と就職、その先にある仕事をして家庭を持つということ。

僕にとっての東日本大震災は、その「当たり前」に疑問を持つ機会になったのでした。

 

机上と現場、両方を知っているからこそ感じた違和感

 

当時19歳の僕の価値観と行動は、とても簡単に変わっていきます。

机の上で学んでいること、教授が話すこと、いつもの日常が変わらずにあることについて、

日本のどこかで「何か」が起きているのに、どうして自分はいつも通りの場所にいるのだろう。

そんな違和感を感じるようになっていました。素直って素晴らしい。

そして、ざっくりいえば大学生の力で「地域活性化」をあの手この手でやっていこう。という立ち上がったばかりのサークルに入ったのです。

10人くらいの少人数だったけど、地方イベントのボランティアやったり、地域ツアー企画したりするのがメインの活動。

その一つに「東日本大震災の被災地へボランティアに行くツアー」を企画・運営するというのがあって、僕は割と積極的にやっていました。

2ヶ月に1回くらいのペースで40人くらいの大学生を集めて、バス借りて、ボランティアセンターの人とやり取りして1泊3日の弾丸で宮城や岩手に通っていたのです。赤い羽根募金の補助金を取るとか、旅行会社の人と旅程を組んだりとか大学生にしては結構ヘビーだったんじゃないですかね。

その中で印象的だったのが「水害で泥とゴミだらけになった木工所の清掃」でした。

40人の大学生で、1軒の工場のゴミやら泥やらを掻き出していくのですが人数の力は凄くて「こりゃ、もう使えんだろ」ってレベルが丸1日で「あと頑張って掃除したら再開できるんじゃないか」くらいになったんです。

終わってバスに乗り込もうって時にオーナーさんがやってきて、泣きながらお礼言われたんですよね。

正直、こっちも勉強だと思ってて、言い方悪いけど「現場を勉強させてもらってる」立場だったので、そこまで感謝されるのも変な感じだったのですが、話を聞いてみると「今まで家族で仕事をしていたけど、震災で水害にあって途方に暮れていた。でも、今日の作業で、今まで何もできなかった所からようやく目処が立って、仕事も再開していける希望が見えた。」みたいなことを言われました。めっちゃ手を握られながら。

僕の場合、このことがキッカケになったのです。

一つは「こんな自分でも生み出せる変化がある」ということ。

何万軒ある被災された家のうちの1軒だけども自分の行動によって人と経済が動くこと。それによって誰かの人生が変わること。そして、それを自分の目で見れること。

もう一つは「今、自分が当たり前に立っている場所は、なぜ存在しているのだろう。」ということ。

その必然性を考えるのが日々の暮らしに組み込まれました。震災によってあらゆる「文脈」が一気に消え失せて呆然とする人達。一方で、その環境の中でも必死に順応して行動をしようとする人達。

極端かもしれませんが僕の目には、その二通りの人がいるように思えたのですよ。

果たして自分はこのまま何となく生きていって、想定外のことが起きた時に一歩を踏み出せる人間でいられるのだろうか。

それに気づいた時の「うわ!!これなんかヤベェじゃん!!」という衝撃ですよ。単位や就活なんて瑣末なことに思えるような(という逃げ口上だったのかも)思考が爆発してシナプスがパチパチィって感じです。

その答えのない問いを投げかけるのに、「地方」というテーマが僕にとって答えのようなものをくれそうなステージだったのです。

Makoto Ootsuka

この記事を書いた人

大塚 眞 / 経営ディレクター / ライター